日本が果たすべき「積極的平和」の意義と役割について

現政権与党が昨年から本格的に取り組んできた憲法と自衛隊活動の拡大を巡る大きな政策転換の動きの中で、「積極的平和主義」なる言葉が強調して使われるようになりました。そこで、そもそもこの「積極的平和」なる言葉の持つ本来の意義と、真に日本に期待される役割について考えてみたいと思います。お時間のある方は、どうぞしばらくお付き合いください。

平和学という学問があります。時代と共に形態を変える戦争を分析し因果を突き止め、その知見により戦争を回避、防止し、次世代の平和に活かしていくことが、この平和学の目的です。この平和学の中では、平和には、単に戦争のない状態の「消極的平和」に対し、戦争、内戦などの直接的暴力がない状態に加え、貧困、飢餓、抑圧、差別、偏見、搾取、などの「構造的暴力」と言われるものや、これらの「構造的暴力」を肯定したり強制したりする人間の心の奥底に巣くう暴力の芽も含め、世の中からなくした状態を「積極的平和」としています。よって「積極的平和」のための活動とは、例えば争い、対立構造等に対し、対話や協定・和平への橋渡しや仲介役を担うなど、平和ひいては安心かつ心豊かな社会の創成に向けての積極的な営みや、より良いあらたな仕組み・秩序といったものを創造していくことでもあると思われます。つまりこの真の「積極的平和」活動に、暴力的手段はどんなことがあろうとも断じて含まず、むしろ真逆をいく対立要素であることを明言したいと思います。

事実、この平和をこの世界で実現させる現実の困難さはさておき、どちらの平和がより好ましく人種・民族・宗教・国籍・信条を問わず、広く万人に安心感、安堵感を与えてくれるかは言うまでもないことと思います。だだし、一方ではこの平和学の考えに対し、過去の人類の歴史より、そもそも人間とは争いや戦争を引き起こす性質を本質的に持つ存在であり、いかなる手段でも戦争は避けられないと、諦めの批判や悲観論を唱える方々も一部にはいらっしゃいます。しかしながら、少なくとも我が国における、太平洋戦争終結後の70年もの間に関しては、内戦、大規模な紛争、戦争を自ら起こしたことも、巻き込まれたことは一度もありませんでした。このような観点から言えば、少なくとも我が国は時代経過とともに、着実に争いや戦争を起こす、あるいは避ける努力と相応の成果を上げている数少ない国の一つと言えるのではないでしょうか。このことから、もう一つ言えることは、人間には本質的に争いを忌み嫌う一方、平和や調和を強く願い、一人でも多くの人々が幸せに暮らす世界を希求する本能的欲求や意思もまた厳然とあり、実際にその世界を作れる力も可能性も十分にあると言うことです。そしてそのために人間は、人類は、過去の大きな過ちから着実に大事な何かを学び、その知見・経験を今現在の生活やより良い将来へ活かす努力をたゆまず続け、少しずつ進化・成長し続ける存在でもあると言えると思います。

ところがどうでしょう。暴力、武力を使った争い、しかも国家的レベルでの争いが始まれば、この行為はどんなに正当な理由や理屈をこじつけたとしても、自国都合、自国正義を優先した国家的、組織的、計画的、能動的な破壊行為、殺傷行為にほかなりません。現代国家のほとんどは、自己都合で殺傷行為、暴力行為に及んだ個人を、公正・中立に裁いたり、罰したりする刑法・司法・民法の仕組みが整っているのに対し、国家規模での戦争に対してはどうでしょう。過去のさまざまな戦争を見ると、いったん戦争と言う無秩序・混乱・狂気とも言える状態に陥ると、時に人間の持つ最も醜く残酷な行為が、いとも簡単に行われる可能性が極めて高まります。こうなると阿鼻叫喚の地獄のような苦しみや悲しみを味わい、人間としての尊厳を根底から奪われた理不尽な扱いや殺され方をした被害者たちがたくさん出てきてしまう一方、戦勝国に至っては、これらの残虐な行為をした加害者もその国家も、明確な咎めや裁かれ方をせずに、なあなあにすんでしまうことになるでしょう。しかし、こんな許されざる大罪行為をしておいて、何の咎めもなくて良いはずありません。とりわけ、破壊・殺傷行為者以上に、そもそもこの戦争をはじめた人、あるいは戦争につながる道筋や背景・文脈を作った人の責任は極めて重いと言わざるを得ません。つくづく思うのですが、そもそも戦争を起こさない、防ぐための要諦であり、確実な予防線は、「何があっても絶対にこちらから積極的に武力行使しない」の一点に尽きると思います。こんなことは実は子供レベルでも十分わかることだと思います。しかも戦争は子供の喧嘩のように軽い被害ですみません。第一次大戦より、戦争は戦闘機をはじめ大量殺戮・破壊兵器が格段に進化し、それが広く世界に拡散してしまっています。現代における戦争では、このような戦争リスクや被害度の高い武器を容易に用いることになる訳ですから、ほんのささないな衝突や小競り合いのつもりでも、戦火は一気に拡大し、未曾有の惨劇を生むことになるでしょう。そして後悔先に立たずで、戦線拡大した後、おそらく時のリーダー、権力者の「こんなはずじゃなかった」「想定していなかった」の無責任な小言で、責任逃れされてしまうことになりはしないでしょうか。

ちなみに、過去、極めて限定的かつ小規模な一事件が発端となり、とんでもなく大規模な世界的大戦争になってしまった教訓的事例があります。それは第一次世界大戦です。この大戦開戦のそもそものきっかけは、1918年6月28日に起きたセルビアの青年によるサラエボ訪問中のオーストリア皇太子夫妻暗殺事件(サラエボ事件)でした。この事件の1ヶ月後、報復の目的でオーストリアがセルビアに宣戦布告すると、各々の周りの同盟国が次々と参戦し、長くとも数カ月程度で終わると言われた戦争は、ロシア、イギリス、フランス、ドイツ、オーストリアはもとより、後にはアメリカ、イタリヤ、日本も巻き込まれての4年間もの血みどろの総力戦になってしまいました。この大戦により死者は少なくとも1500万人、使われた戦費だけでも800億ドル以上、他に物的・人的・心的等もろもろの被害、悪影響を考えれば、人も国家も単に数字や金額に置き換えられない甚大な被害を被ったとんでもなく予想外の世界的規模の大戦争になってしまいました。ちなみに、この大戦のきっかけとなったように国の重要人物が殺されるようなことは、確かに許されない悲しい行為ですが、当時このような事件はそれほど珍しくなかったということです。しかしながら、いまだに、なぜこれほどの大規模な戦争にまで拡大してしまったのかの要因のっ徹底検証、究明はされていないそうです。

さて、再び本論に戻りますが、戦争と言うのは、当初は起こすつもりがなくても、ほんの些細なきっかけから、いつしか制御不能なレベルにまで一気に増殖・拡大してしまう大変恐ろしい存在であることを私たちは強く肝に銘じ、常にそのリスクを念頭に謙虚に自らを戒めねばならないと思います。そのために、先の終戦後、憲法9条により自らに禁じ手や縛りを設け、個別的自衛権の行使を除き、自ら武力行使しないことを固く誓い、今日まで確固たる平和主義国家としての姿勢を一貫して貫いてきたのが、我が国日本の世界に誇る素晴らしところだったはずです。

ところが今の日本はどうでしょう。現在、我が国においての現政権は、まるで民意を軽視し自分たちのしたい思惑通りのことを、周囲に有無を言わさず数や力で「粛々と」推し進めようとしているように思えます。しかし、このままこの国民の声を無視した暴走を放っておいたら、我が国は戦後その脈々と受け継がれてきた忘れてはならない信条や、尊い犠牲の上に命がけで獲得してきた決意や覚悟の象徴であるはずの「非戦国」「平和主義国家」として自負・プライドに自ら泥を塗ることにならないでしょうか。そして、戦争で亡くなったすべての人たちの思いを蔑み無視するかのごとく、公然と他国に対し武力行使ができる国家になり下がってしまうのではないでしょうか。人間に例えれば、子供でも分かることですが、人間的に人格的にも成熟してゆけば、単純に自分の思い通りにならないことがあるから、気に入らない乱暴な奴がいるからと、短絡的に暴力に訴えることは決してしません。成熟した良識・見識ある大人ならば、智恵や創意工夫をフル稼働させ、相手の立場や考えにも丁寧に耳を傾け、和平や協調の道筋を粘り強く見いだす努力をしてゆくことでしょう。繰り返しますが、暴力による破壊・殺傷行為のその先には、ハッピーエンドも恒久的平和も望めません。なぜなら、たとえ争いが表面的・形式的には一旦終結したとしても、そこにはあまりにも大きな犠牲、損失、形容しがたい深い悲しみだけでなく、激しく根深く永遠に消えることのない恨み・憎しみの念が残り、それがご本人はもとより子孫代々まで踏襲されていくことになるからです。

このように読み解いていくと、現政権は本来ならとてつもなく尊く高い志の意味を持つ言葉であるはずの「『積極的平和』なる言葉をさも都合よく引用して、自国と世界の平和に積極的に貢献する正義の味方イメージで、国民の目を欺きなんとか押しきって、なるべく早くに法案化してしまうおう」とでも言うような思惑が感じられなくもありません。より具体的に言うならば、現政権が掲げるこの「積極的平和」をスローガンとした「安全保障関連法案」には、「最近の中国の海洋進出等軍備拡大路線や、世界的規模でのテロ活動の複雑化・活発化の様相がとても心配なので、『自国の平和と安全を守るための抑止力』『国際社会の安全と平和のため』との名目のもと、いつでもどこへでも他国へ出向いて武力行使できる取り決め・しくみ、それも直接自国と関係なくても同盟関連国より援軍を頼まれたり、そのうち自国にも被害が及ぶのではないかと疑念を持てば、それを理由に武力行使しても良い取り決め・しくみ』を今のうちに早いとこ通して整えてしまおう」との意図をありありと感じざるを得ません。ここで、もちろん政府が言うところの「抑止力」は確かに大切ですし、必要不可欠なものです。しかしそれは、専守防衛の為、個別的自衛権行使の為に、我が国が主体的な工夫努力の中で備え、自力での盤石化を優先的に目指してゆくべきものです。しかし、今回の安全保障法制の見直しによる自衛隊活動の180度の大転換とも言える拡大化案は、まるで我が国が有事の際に他国からの武力支援の約束を取り付けるための「見返り」策のように思えてなりません。ただし、人それぞれに考えは違えど、愛する我が国を守ろうとする気持ちは、全員同じなはずです。ならばこそ、今回の安全保障法案の見直しに関しては、少なくとも本当に我が国の行く末を憂い、本気で案じる者同士、どんなに時間をかけてでも丁寧に徹底的に議論して欲しいものです。ついてはこの検討、審議に際しては、今一度この政策、関連法案のメリットだけでなく、内在するリスク、デメリットについても徹底的に検証し、すべてを明確に提示しつくした上での慎重な議論をお願いしたいところです。世の中には、後になってからでも悔い改めてやり直せる失敗や過ちもありますが、時にはたとえどんなことがあっても、踏み誤ってはならない局面、肝心どころ、正念場と言うものがあります。それがまさしく今なのではないかと思います。

終戦後70年間、憲法9条のもと、徹底して平和主義を貫きいてきた結果、どんなことがあっても他国や他国民に対し銃弾を一発すら打たず、一人も傷つけることなかった実績とその姿こそ、尊く大きな犠牲の上に戦後復興を遂げた日本、世界で唯一の戦争被爆国でもある日本としての誇りでありプライドだと思います。事実、もしこの憲法9条が戦後日本にそもそも存在しなかったなら、戦後間もなく起きた「朝鮮戦争」その後の「ベトナム戦争」ひいては「イラク戦争」で、日本が戦争に巻き込まれてしまった可能性を示唆する専門家の声もあります。繰り返しますが、将来、私たち国民を命がけで守ってくれるありがたい自衛隊員の方々、今後隊員候補者となる若者、ひいては私たちの家族、友達、恋人、同僚たちに、今後、わざわざ他国に出向いてまでして、その地域の人々を殺傷し、国土を破壊させるような行為を強要するようなことは、絶対にあってはなりません。そして、小競り合い程度の衝突からでも戦火が拡大する中で、いずれ日本そのものが積極的に攻撃を受け、無実・無力な女性・子供・高齢者までもが無差別に殺傷され、国土が荒廃するようなことは断じてあってはなりません。私たち日本が本当に目指すべきは「真の意味での積極的平和活動」を国内はもとより世界に対し、強くゆるぎなくしっかりと実践し、国際社会の平和と安全に寄与、貢献してゆくことにあると思います。今、我が国は唯一の戦争被爆国として、憲法9条を掲げる平和国家として、今一度世界の中で唯一日本にしかできない大事な役割を、しっかりと担うべき時でもあると思うのです。ついては、少なくとも今日本国内、そして国会の中で起こっている事態こそ、まさに我が国の将来の存亡にかかわる極めて重大な岐路であり正念場であることを認識いただき、この機会に国民の皆さん一人一人が、愛する我が国日本の数年後、10年後、50年後、100年後、千年後までの将来を見据えた展望のもと、あらん限りの思考と想像を徹底的に駆使して、お考えいただけたら嬉しく思います。
尚、その際たとえどんなに想像力を駆使したとしても、戦争の悲惨さ残虐さを実際に体験している戦争体験者、戦争被害者の方と比べれば、とうてい及ばないことを肝に銘じる必要があります。そして、少なくとも現政権の中枢の多くは、直接的に戦争を体験していない戦後生まれであることを強調して、この話を終わりにしたいと思います。