終戦後70年目の夏「平和と非戦の国日本」「戦争と核兵器のない世界」の実現に向けた提言

終戦後70年目の節目となる2015年夏、日本は戦後これまで平和憲法により一貫して堅持してきた「平和と非戦の道」の歩みを大きく反転させ、今後は「わざわざ国外に出向いてまで戦争ができる国」「他国の戦争に加担する国」へ方向転換しようとしています。今まさに日本は「戦争する国、戦争ができる国になるか」それとも「これまで通り戦争を絶対にしない平和と非戦の国を堅持するか」の二者択一の岐路に立たされているのです。しかし、そのどちらの選択が愛する日本の平和と国民すべての命を等しく恒久的に戦争から守りぬくことができるのか?そして積極的に世界の平和と安定に貢献できるようになるのか?の答えは、あまりにも明白ではないでしょうか。戦後70年目の節目にあたる今、日本にいったい何が起こっているのか?どんな危険がせまろうとしているのか?そして本当に立ち向かうべき相手は何なのか?今後日本が果たすべき役割は何なのか?etc以下私なりの考えを述べさせていただきます。長い文章になりますが、興味・関心がおありの方はどうぞしばしお付き合いください。

●「憲法違反と国民軽視」「偽りの積極的平和と平和安全保障」の実相を問う

そもそも政府が、国民にはとても耳触りよく聞こえる「積極的平和主義」「平和安全保障」なる言葉を前面に打ち出し「集団的自衛権行使容認」の動きを強めたのは昨年くらいからだったと記憶します。そして現在、例えば与党ホームページには「不戦を誓い守り続ける、国民の命と平和な暮らしを守り抜く平和安全法制」と堂々と明記され、いかにも「不戦、平和」や「国民の安全性」をより強調したメッセージ戦略がうかがえます。しかし政府が実際に今進めようとしている政策・行動の本質や実態はいかがなものでしょう。それは「理由をつければ他国に戦争をしかけることができること」「国民に国外の戦地にまで赴かせ、したくもない殺し合いをさせることを強要する仕組みを整えること」でありこの結果、当然のつけとして「派遣された自衛隊員の命と関わるご家族含めた平和な生活を確実に脅かすこと」であり「対外的・表面的には平和を掲げながらその実、信念を偽り平然と戦争をしかけるような不誠実な国家になり下がることで、他国から憎悪と報復意識の高まりによる本格反撃、テロ攻撃を誘発させ、より一層国民全体の命と平和な生活を危険にさらすこと」にほかなりません。このように今の安全保障法案では、むしろ国民の被る被害リスク、戦争リスクをさらに格段に高めてしまうことになりかねません。ところがやっかいなことに、この法案を何が何でも押し通したい政治家・関係者にとっては、この法案・政策こそが本当に単純に「抑止力」を高めることにつながると固く信じて疑わないようです。さらに悪いことには、このような自分たちの考えこそが絶対的に正しく、日本を確実に守る道だと信じて疑わないのだから手に負えません。そして自分たちのしたい放題好き勝手な政策を、何が何でも実現させることにばかり注意・関心が行ってしまい、肝心の大多数の国民の声や考えに耳を傾けようとせず、軽視あるいは無視するような傲岸不遜な態度や言動が見受けられますが、まさに言語道断、本末転倒です。このままでは日本は「平和主義国家」の信念を自ら覆し、真っ向からそれを否定し棄損することになります。政府が目指している偽善的な「積極的平和主義」の本質をそのままストレートに言い替えるなら、「積極的武力解決主義」であり「積極的米国従属主義」のようなものです。このままでは平和主義国家の誇りを捨てた戦争肯定国、武力行使肯定国になり下がり、いずれ世界中からそっぽを向かれてしまいます。ちなみに現安全保障法案に対し、圧倒多数の憲法学者に加え、かつて政府の憲法解釈を担った実務者までもが「憲法違反」と厳しく批判しています。事実、専門家でない一般市民ですらその6割を超える方々が率直に憲法違反と感じています。そもそも解釈でどうとでもなるようなら、それはもはや憲法でなくなってしまいます。そしてこの憲法違反の状態を政権みずからが直視せず、ごまかし否定し続けるのなら、それは立憲主義、民主主義そのものを根幹から否定することになります。このままでは日本は、一部の権力者が自分たちのしたいように好き勝手に国を動かし牛耳れる「権力暴走国家」「暴権国家」に成り下がってしまいます。ちなみに政府も内心おそらくは憲法違反であることの疑義、危険性を十分認識していながらも、最初から結論ありきでアメリカのご機嫌取りを兼ね、本法案を何が何でも通すのが最大の目的と想像します。そしてまさにあらかじめ決まった結論を押し切るためにと、苦肉の策でひねり出したのが「新3要件」だったのではないでしょうか。しかし本来国家権力の暴走を抑え国民を守るためこその国の最高法規である憲法ですら、軽視、無視しようとする政権が、憲法よりも格下レベルの位置づけとなる「新3要件」のルールを、実際の有事の際に慎重に真剣に取り扱い対応してくれるとは到底思えません。有事の際、おそらくは自分たちのその時々の利害や都合しだいに好き勝手に理由・論理づけし、起こりえる戦争拡大リスクを大変低く見積もり、必要あればと安易に武力行使を発動させてしまうことでしょう。ちなみに圧倒的多数派の憲法違反との批判に対し、政府は50年以上も前の当時在日米軍の駐留が認められるかが肝心の争点で、そもそも日本の集団的自衛権の合憲性そのものを問うていない砂川判決まで無理やり持ち出しましたが、これについては驚きを通りこし呆れるばかりです。このように直接的関係のない「砂川判決」までわざわざ持ち出さなければ、取り繕いようのない稚拙レベルの回答の繰り返しばかりで、納得ゆく説明がまるでできていないことから考え、もし仮に危機的事態に直面することになった場合、今の政府では適正により良き分析・検討・判断が下せるとはとても思えません。むしろそれどころか、不十分な情報収集に基づく心もとない脆弱な外交力と問題解決力、戦争リスクを甘く考え見誤った決断などが重なった結果、事態をより危うくし国民を本当に危険にさらすことになってしまうと想像せざるを得ません。集団的自衛権行使の結果として想定される危機事態に対する、総合的、包括的、中長期的、具体的対応策・解決策も満足に整えられていない状況で、まずは結論ありきで国民に対し、いたずらに意図的に安全保障に関する危機感や恐怖感をあおり、それを都合のよい追い風にして優先順位が必ずしも高いと思われない政策(「集団的自衛権行使をはじめとする安全保障法案」「武器輸出の解禁」「原発再稼働や原子炉輸出」「日本版NSC」「特定秘密保護法」「沖縄新基地移設計画」etc)ばかりに関心とエネルギーを注いでいる姿を何度も見せつけられると、もはや疑念や不信を通り越し、何かとても意図的で後ろめたいたくらみがあってのことではないかと懸念せざるを得ません。

●真の積極的平和主義に根差した日本にしかできない役割と行動

では今後日本が「平和と非戦の道」を堅持し、国民の命と生活の安全を守る抜くために、ひいては世界平和と核兵器の根絶に向け、今私たちが本当に力とエネルギーを注がなければならないことは何でしょう。私としては以下の二つの指針を提言したいと思います。

一つ「日本が世界に誇るべき平和主義を、今一度全世界に向け高らかに宣言し、世界の戦争や紛争の解決と和平、調停、調和のための役割に徹してゆくことと」

二つ「紛争や戦争の背景要因となる、差別、偏見、貧困、格差解消に向けた取り組みを、まずは国内から整えその仕組みやノウハウをしっかりと世界に発信し拡大・普及させてゆくこと」

この理由は、人や国家は一旦示した信念や約束を守り抜くことを明言し、実際にその後行動・態度で示し持続して実践していく真摯な姿、誠実で実直な人柄や国風を実際に目の当たりにし体感してこそ、はじめて心を開き信頼や相互理解の歩み寄りの姿勢を示すものと考えるからです。事実、戦後70年の日本のこれまでの歩みと実績こそがそれを証明しています。具体的には例えば、かつて日本の侵略戦争や植民地支配により多大な被害と辱めを受けたアジア諸外国に対し、日本は戦後長い年月をかけ、少しずつ許しと信頼、友好の念を獲得しつつ、今では深い尊敬の念を抱いてくれる国も現れるまでになりました。この大きな要因の一つは、先の侵略戦争と植民地支配行為を真摯に受け止め自らを痛烈に反省した日本が、戦後「平和と非戦の道」を最も重んじる国であることを世界に示した上で、アジア諸外国に対し科学技術供与や資金援助の経済面のみならず、人的、文化的にも盛んに支援と相補交流を展開してきたことに由来するものと思います。そしてもう一つには国の最高法規とする1947年5月3日施行の日本国憲法9条により、以来自らに絶対にやぶることのない固い縛りとなる禁じ手を課し、未来永劫断固として戦争を二度としないとの非戦を明確に誓い、平和主義国家の道のりをひたむきに着実に歩んできた実績が、諸外国からの日本への安心感、信頼度を徐々に高めさせていったのではないかと推察します。そしてこのように戦後日本が平和主義国家を貫き通してきた姿と実績に対する諸外国からの評価と尊敬の念は、今やアジア圏にとどまらず、世界中に広まってゆきました。その一例として、これまで中東、イラクでは日本を欧米列強諸国とは一線を画し「日本は二度と戦争をしないと憲法で決めた国。平和的解決に尽力する国。」「先の戦争で甚大な被害を受けた敗戦国でありながら、今日の平和的な国家を作れた日本は凄い。」と言った高い評価と尊敬の念を持っておられる人々も数多かった聞きます。とりわけ政治的・社会的に混乱し、貧困・差別、紛争が絶えない国の人々にとっては、なおのこと戦後ゼロからの奇跡の復興と繁栄を遂げ「平和と非戦の道」をその信条として明確に掲げる「平和の国日本」ならばこそ、おのずと信頼と尊敬の念が湧きあがってきたのだろうと想像します。このように、これまで日本こそが世界に唯一無二「平和と非戦」の信条と姿勢を一貫して貫き通してきたことが、国際社会における日本自らの地位をより向上させ、さらに安定させるとともに、その周辺地域の安定のためにもまた好影響をもたらすことになったのだと思います。これらのことから、今後ともこの信条と姿勢をより声高に鮮明に世界に堂々と発信してゆくことが、そして日本ならではの様々な実践を着実に積み上げてゆくことが、最善の防御、抑止力になることでしょう。

●平和国家の信用を失い、戦争肯定国、軍事立国への流れを疑わせる動向と文脈

ところが昨今、残念ながら諸外国からのこれまでの日本への信頼感覚が徐々に薄れ、中国、韓国はじめ諸外国からの目は日ごとに厳しくなってきているようです。このように、これまでとは様変わりし諸外国からの日本への見方、印象が大きく変わり始めたのが、第2次安倍内閣発足以降、安倍総理が、歴代総理が踏襲してきた先の侵略戦争に対する痛烈な反省と謝罪の意を軽視しはじめ、靖国参拝を強行したり、異常とも言える性急さと強引さで我が国の安全保障分野の政策転換を次々と取り始めた頃と時を同じくしていると思われます。注目すべきは今回の安保法案成立に向けた動向の伏線として、日本がこれまで築き上げてきた平和国家のブランドや誇りを毀損し、諸外国からの信頼を揺るがしはじめる流れを作った文脈と動向です。この中でも以下2つの顕著な動きは決して見過ごせないものと思われ、ここにあえて述べさせていただきます。

一つ目は、昨年、武器輸出に関しこれまで平和国家の信条に則り歴代内閣が踏襲してきた「原則禁止として輸出しないが、例外を認める」としてきたものを「原則輸出可能で問題がある場合は禁止する」と言わば原則と例外を180度逆転させてしまったことです。これはこれまで築き上げてきた平和国家の礎や誇りに自ら泥を塗るに等しい行為です。本音はおそらく今後大きな経済成長が期待できない日本にとって、あまりにも巨額な利益が得られる武器技術提供や武器製造売買分野が大変魅力なマーケットであることを、現政権も関係者も大変魅力を感じてのことでしょう。事実悲しいことに、世界では戦争をしたがる国、武器を必要とする国は、潜在的に多数存在しますし、複雑化・不安定化した国際情勢の中では、世界中でこのような国が今後ますます増えることになるでしょう。また欧米列強各国に武器に関する日本の技術や製品を輸出すると言うことは、列強各国にとってみれば日本は必要不可欠な貿易相手国であり、重要なパートナーとしてみなせるわけですから、今後の利害関係を柱とした結びつきはより一層強まり、いざとなれば同盟関係も築きやすくなるでしょう。しかし、実際には、武器輸出国からの最新鋭の武器はめぐりめぐって世界中に拡散し、結果的にはISはじめとするテロリストにもその一部が大量にわたってしまっています。そしてそれがまた罪もない人々はもちろんのこと、皮肉にも武器を作った側の国の兵士をも多数殺傷することになるのですから、こんなむなしく悲しいことはありません。

二つ目は、政府がいつのまにか目立たないように粛々と進めている原発再稼働と原子炉輸出の動きです。本年4月、経済産業省は2030年の電源構成内訳において、原子力を20~25%との見通しを発表しました。この案はこのまま政府案として踏襲されることになるそうですが、福島原発事故後、あれほど将来的な廃炉、減炉、ひいてはできる限り原発を少なくしゼロに近づけてゆく方針を打ち出した事実はいったいどこへいってしまったのでしょう。ちなみに2012年原子炉等規制法の改正にともない、原子力発電所については運転開始から40年がたった時点で廃炉とすることが、そして原則特別な場合のみ20年の延長が認められることが定められました。しかしこの原則が厳格に運用されるとするならば、現原発の30基は廃炉としても、残りの20基のみでの20~25%達成は到底難しく、延長説や新原発の増設しかありえなくなります。加えて政府はこれまで脱原発を明確に掲げていたはずが、トルコへの原子炉輸出を本格化させるなど、いつのまにやら国民への約束を反故する方針に様変わりしているではありませんか。当然原発を手に入れたトルコには、将来的には、発生する核のゴミを再処理してプルトニウムに変え、核兵器を作る展望がないはずがありません。一方日本においても原子力開発を目的に米国から買ったプルトニウムや高濃縮ウランが保有されていますが、そのうち核爆弾への転用可能な純度の高いプルトニウムも現存します。米国は日本に対し「警備体制の弱さによるテロリストに渡る危険性」を理由に返還要請を行い、日本も一部の返還は了承しているものの、いまだ核保有化に十分なプルトニウムが存在します。そもそも米国の返還要請の本心は、日本の核保有化を警戒したものとの見方もあります。事実ここまでの国民の大半の将来的な原発ゼロ、今後の原発再稼働反対運動にもかかわらず、安倍政権が頑なに原発を手放さず再稼働や核燃料サイクルの維持にこだわる最も大きな理由は、経済界からの強力な要請だけにあらず、残念ながら将来的に核武装による列強国と同等の立場になることを思い描いているように疑えてなりません。少なくとも、これまでの一連の安全保障政策の文脈を一つ一つ丁寧に読み解き、上述の武器輸出解禁の動向と比例しての武力依存度の増大の流れの行き着く先の究極目標を考えれば、残念ながら何かひた隠ししたい野望の存在が疑われます。日本は、人類史上唯一しかも2度までも原子爆弾の投下により、死者(行方不明含む)だけでも広島12万2338人、長崎7万3884人もの多くの方が、一瞬にして無差別かつあまりにも非人道的に惨たらしく残虐な殺され方をしました。地獄絵図はその後も続き、被爆後の5年間だけでも広島約20万人、長崎約14万人もの方が亡くなっています。この歴史事実を踏まえても、日本こそが、そして日本国民の私たち一人ひとりこそが、もっとも強く主体的に戦争と核兵器のない世界を実現するために尽力しなければならい責務と使命があると思います。反戦、反核に反する誤った道…武器技術提供や武器製造販売・販路の拡大、核廃絶と逆行する武装化への暴走、その究極にある核武装化のシナリオは、現段階ではたとえ一部の政権者や利権者の頭の中の思惑レベルであったとしても、決してあってはならないこと、絶対に許されないことです。

●戦争と核兵器のない平和な世界実現に向け、必要不可欠な思考と想像の徹底駆使

戦後70年の節目にあたる2015年夏、日本にはそして私たち国民一人ひとりには、敗戦の悲しみや苦しみを乗り越え、全てを失いゼロから大切に培いコツコツと時間をかけて育て上げてきた平和主義、平和憲法の素晴らしい考えと、これらに基づく立憲主義、民主主義をあらためて固く守り続ける責務と覚悟が問われています。それは今の日本を生きる私たちだけでなく、先の戦争で無念な最期を遂げ犠牲になった多くの方々の想いや願いも託された、とてつもなく重い責務と覚悟でもあります。そして今、世界も日本の動向と今後の行く末をとても注意深く見ています。今後、日本が真の成熟した民主主義国家、平和主義国家としての歩みをより明確に示し、混沌とする不安定な国際社会に立ち向かい、積極的に人道的に尊敬に値する質の高い貢献をするに足る器の国かどうかが試されています。そのために私たちはもうはいい加減、これまでのようにすべてを国、政権者、官僚任せにしていてはならないのだと思います。ちなみに長崎被爆70年を迎えた2015年8月9日の平和祈念式典において、田上富久市長は全世界の一人一人に対し、丁寧に語りかけるように「戦争と核兵器のない世界を実現するための最も大きな力は私たち一人ひとりの中にあり、一人ひとりの活動も集まれば大きな力になる、私たち一人ひとりの力こそ戦争と核兵器のない世界を実現する最大の力である」との旨の力強いメッセージを示してくれました。この話を聞き私としましてはあらためて、まずは自分たちが身近に暮らし過ごす世界、地域社会の中で、身の丈にあった自分にできる範囲のことからでも、具体的に行動してゆかなければならないことがたくさんあると感じました。例えば、マクロな視点の「世界の平和と非戦」を目標に掲げながらも、ミクロな視点で見えてくる地域社会における精神障がい者、社会的弱者、生活困窮者等に対する「偏見・差別・貧困・格差意識、あるいは多様性の不寛容さ」の課題を、どのように解決し解消してゆくかが試されていると実感しました。この実現は大変難しく、相当の時間を要するものと思われます。ちなみに私としては、日頃生業とする心理士・障がい者支援員として、末永く粘り強く支援活動を展開してゆく上での最重要基盤として、まずは利用者さんと「関係性を築く」ことを最重要視しています。ここで関係性を築くためにとても大切にしている3つの心掛けをご紹介したいと思います。それは「常に自らを戒め省みる謙虚さ」「他者への徹底的な想像力の駆使とその持続」「寛容なる心」を忘れないことです。言うは易し行うは難しですが、この心構え、姿勢を重んじ自らの役割である精神障がい者支援活動を積み重ねてゆくことが、着実に人と人との信頼の輪を築き、障がいのあるなし関係なく誰もが安心して他者を思いやれる共生社会の実現にもつながるものと信じています。そしてこの気運・流れが世の中全体、世界中の隅々までくまなく広まりゆく末には、いつかきっと争い、紛争、戦争、核兵器のない平和な世界が必ずや実現できるものと固く信じてやみません。

今、私たち一人ひとりが成すべきことは、平和と非戦の誓いを深く強く心に刻み込み、「戦争と核兵器のない世界」そして「差別・偏見・貧困・格差のない真の積極的平和」を実現することを決してあきらめずに挑み続けることと思います。そして、その実現に向け日本政府には今後「真の意味での積極的平和活動」を国内はもとより世界に対し、強く揺るぎなくしっかりと発信、実践し、国際社会の平和と安全に寄与、貢献してゆく役割を強く望みます。そして私たち日本人一人ひとりも「自分自身の中にこそ戦争と核兵器のない世界を実現させる力がある」ことを強く揺るぎなく確信し、日常生活の中で地道に足元から始められる「何か」を見出し、それをコツコツと継続してゆくことが、将来的にはこの国をより良き方向に変えてゆくことができるのではないかと考えます。ただし、これはあくまでも私個人の主観的考えです。決して私の考えだけが正しいとは思っていません。そもそも日本を思う情熱も、日本をよりよく導く考えも方法も、人それぞれです。しかし多岐に枝分かれした多様な考えも方法も、人間そして人類が心の底から強く熱望する行きつく先、集約先の究極の目標、理想の形は、おそらく皆同じようなものだろうと想像します。

終戦後70年目の節目にあたり、皆さん一人ひとりが愛する日本、そして世界、地球の1年後、5年後、10年後、50年後、100年後、千年後、その先の未来永劫までの将来を見据えた展望のもと、あらん限りの思考と想像を徹底的に駆使して、この問題をお考えいただけたら大変嬉しく思います。長時間にわたるお付き合いありがとうございました。