終戦後69年目の夏にあらためて思う「平和」と「非戦」の大切さについて

本年8月15日に終戦後69年目の終戦記念日を迎えるに当たり、わが国の「集団的自衛権行使容認の動き」を含め、日本の貫くべき「平和」と「非戦」の道について、若干私見を述べさせていただきます。長い文章になりますが、少しでも興味のある方はしばらくお付き合い願います。

最近世間をにぎわす「集団的自衛権」。そもそも「集団的自衛権」とは、政府解釈によると「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利」のことです。これまで政府は憲法9条のもとにおいて許容される自衛権の範囲は、我が国を防衛するための必要最小限度の範囲にとどめるべきものであると解しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであって、憲法上許されないとしてきました。ところが、現在、にわかに政府はこの解釈を変更して集団的自衛権の行使を容認しようとの方針を打ち出し、国民の不安や批判、反対意見に耳を貸すことなく、国会での十分な議論もなく閣議決定させてしまいました。この現政府のかなり独善的・強行的なやり方には、以下の通り大変危惧せざるを得ません。

一つは、この「集団的自衛権行使容認による憲法の骨抜き化」は序章に過ぎず、今後同じような形で、まさに私たち一人一人にとってかけがえのない大切な祖国の生活の仕組みやありようと言ったものまでもが、時の政府、突き詰めれば一部政治家の意思・思惑通りに好き勝手放題にコントロールされてしまうのではないかとの強い危機感を感じざるを得ません。例えば、自民党の新憲法草案を読むと、「自己責任」なるキーワードが目立つ一方、憲法第9条と同じく我が国の憲法として誇るべき「生存権」「基本的人権」等の人権に関する重要な部分・条項の文言・表現が巧妙に変更・削除されているのがとても気になります。この流れに沿って一部政治家がさらに調子に乗って、今後さらなる広範囲な領域において、政府や一部特権階級の都合優先で、我々の暮らしの仕組みの変えていけない大事な部分までもが、独善的に変更されていってしまうのではないか?との大きな危惧を感じずにはいられません。

二つ目は、改めて言うまでもありませんが、戦争とは、言い換えるならば国家的規模において互いの国同士が、大量破壊や殺戮に加担したり、その逆の立場になる行為に他ならないにもかかわらず、この戦争を永久に二度としないと誓った非戦国日本が、再びその渦中に巻き込まれてしまうリスクを飛躍的に高めてしまうことになる危険性です。ちなみに「集団的自衛権」容認派の意見・考えで多いのが、これだけ国際的な対立や緊張が高まっている状況において、もはや何かあった場合に我が国一国だけで自国を守れるのかとの不安・危惧から来る共同戦線歩調を理由とした主張です。ちなみに一部政治家の発言にもありましたが、この考えを同様とする一部の方々からは、「もし友達がいじめられていたら助けるのがあたりまえでしょう」との論理があります。ここで、この論理を実際の友達関係に照らし合わせて考えてみたいと思います。まず行動に移す前に、友達が本当にいじめられているかどうかの確認が大切です。真相を良く知らないまま、ただ表面的に断片的に、その時その場で自己判断して、実はいじられているわけでないのにいじめられていると思い込んで、即座に反応して相手に攻撃を加えてしまっては、ことがさらにややこしくなるばかりです。また、友達が本当にいじめられていることが明確に判明したとしても、友達を助けるには即暴力一辺倒だけでない、実に色々な助け方、多様な解決法があるはずです。同じように「目の前でやられている友達がいたら助けるのがあたりまえでしょう」との意見もあります。ただし、この状況も現実的に置き換えるなら、上述のいじめられているかの真相究明とそれに見合った対応とほぼ同じだと思います。また、そもそも国家的理解や利権が絡む国家同士の紛争や対立において、本当にどちらか一方が絶対的な「善・正義」で、もう片方が絶対的に「悪・不正義」と決めつけることができるでしょうか。それぞれの国の立場から、自国と国民を守る信念と正義に基づき戦っている点では、大きな違いはないように思えます。まして国・民族・人種・風習・宗教・文化・価値観etcが大きく異なるもの同士では、ちょっとしたことから常にズレや誤解が生じ、相手を受け入れ難く感じている上に、互いに対する偏見・差別・誤った固定観念や先入観が、他者理解をさらにゆがめて、対立や紛争に発展しかねない火種を多かれ少なかれ孕んでいると言えます。このように、ただでさえ国家間同士が対立・紛争に陥りやすい世界情勢において、ケンカし始めたお友達である他国に、敵対相手国側の立場や事情を良く知りもしないまま、とりあえず飛び入り参加して、お友達の敵対相手国を一緒にやっつけようとする子供じみた解決法は、いまどき小学生でも安易にするものでないと思います。しかもやられた相手にしてみれば、何も悪いことしていない第三者のA君(第三国)にまで、不条理に攻撃されたことがきっかけとなり、今まで縁もゆかりもなかった第三者への恨み・つらみを募らせ、ついには仕返しを企てることになりかねません。その後の展開は容易に予想がつきますが、泥仕合の不毛な攻撃の応酬合戦に自ずと至ることでしょう。しかも深刻なことは、これが国家間規模となると、その被害・損失の甚大さは、個人のケンカ・暴力沙汰とは桁違いに違い、しかも後でどんなに後悔し嘆き悲しもうが、もはや取り返しがつかない未曾有の惨劇・悲劇を再び作り出してしまうと言うことです。例えば数字レベルだけで見ても、第二次世界大戦による全日本国民の死者・行方不明者合計は、約310万人、アジア全体で約2000万人、全世界では推定6000万人とも言われています。その上、この方々達の亡くなり方の理不尽さ、陰惨さと言ったら、筆舌に耐え難いほど酷いものです。例えば一例ですが、太平洋戦争末期に、日本の敗戦が濃厚となった時点で、当事のソ連は日露中立条約を破棄し、連合国の要請に応じ対日参戦を実行し、満州国、南樺太、朝鮮半島、千島列島に進行しました。当時、命からがら日本になんとか逃げ帰れた方々によると、武器を所持せず何の敵意もなく逃げ惑う一般市民、それも無抵抗の女性、高齢者、子供に対してすら容赦なく、暴行、強殺、強姦 略奪、その他筆舌に尽くしがたい、この世のものとは思えない愚行が現実に行われていたとのことです。加えて多くの方々が、強制収容所に連行・抑留され、耐え難い労働と屈辱に苛まれながら、再び祖国の地を踏むことなく、無念な死を遂げたと聞きます。もちろん戦争となれば、この被害的立場は常に逆転し、双方が相応に被る危険性を孕むことになりますが、そもそもその残酷さ・理不尽さ・心の奥底まで深くえぐるような傷の深さと痛みの深刻さレベルにおいて、戦争は本来人間が断じてしてはならない最も卑しく愚かな行為だと思います。

このように私たちが戦争と言う大きな過ちを決して繰り返さないためには、個々の人間から民族・国家の組織レベルでの争いごとにも、本質的に共通する最も忘れてはならない大事なことがあります。それは、そもそも「暴力による解決」は紛争解決において本質的な問題解決にならないどころか、さらなる悲劇を作り出すきっかけを作り出すものとして、断じて使ってはならないと言うことです。なぜなら一旦行使されてしまった暴力による被害を受けた側の恨み・つらみは、往々にしてさらなる怒りや憎しみを相互作用的に際限なく増幅させ、互いのどちらかが屈服するまで、あるいは死滅するまで泥沼化、悪循環連鎖を引き起こしてしまうからです。この一旦暴走し始めると歯止めが効かなくなり、人間の手に負えなくなる悪夢のような悪循環の惨状は、まるで原発事故の様相と似ているように感じます。一度「暴力」「攻撃」と言う最初のドミノを倒してしまったら、最後…後は加速化したドミノ倒しの連鎖は誰にも止められなくなるのです。

いずれにしても何が本当に正義なのか、正しい道なのかを導き出す真摯な思考努力が、今私たち一人ひとりに求められているように思います。そして10年先、100年先、1000年先、あるいはさらなる未来永劫の日本そして世界を見据えて、輝ける素晴らしい平和と非戦の世界を子孫に残せるようにしたいと、戦後69年目の8月を迎えるにあたり切に願うばかりです。