戦後72年目の夏 平和と非戦を貫く国日本が果たすべき「戦争と核兵器のない世界」の実現に向けた提言

今夏、戦後72年目の終戦の日を迎えるにあたり、先の戦争により犠牲になられた国内外全ての方々に深い哀悼の誠を捧げます。また、本年2017年7月7日、核兵器の全廃と根絶を目的に核兵器の開発・保持・使用を禁止する「核兵器禁止条約」が米ニューヨーク国連本部で採択されたことを受け、戦後72年もの長きにわたり、あらゆる機会を通じ地道に粘り強く壮絶な被爆体験を語り続け、強く一貫して核廃絶を求め続けてきた広島と長崎の被爆者の方々とその関係者の方々に、心より敬意を表します。

2017年8月15日終戦の日を迎えるにあたり、今夏も「日本と世界の恒久平和」「戦争と核兵器のない世界」の実現に向けた提言をさせていただきたいと思います。長文になりますが、興味・関心ございましたら、しばらくの間お付き合いいただきたく存じます。

はじめに

先の戦争で多大な犠牲者を出し壊滅的な被害を受け焦土と化した72年前の日本。我が国はその後平和憲法を堅持し、戦争で一人の犠牲者を出すこともなく今日まで、平和と非戦を貫き続けてきました。ところが冷戦終結後、国際情勢、世界のパワーバランスが大きく変わりはじめ、現在日本を取り巻く安全保障環境は日ごと厳しさを増してきています。そんな中、近年、政府はこれまでの憲法解釈を大きく変更し、本質的には安全保障体制強化策とはむしろ真逆に作用し戦争リスクをかえって高めてしまうことが大いに懸念される「集団的自衛権の行使を可能とすることを含めた安全保障関連法」「武器輸出の実質上の解禁」はじめ「原発再稼働と原子炉の海外への輸出」と言った必ずしも優先順位が高くない政策に、十分な検討・議論なきまま前のめりに力を傾けています。そして極めつけは2017年7月7日、国連本部にて核兵器を国際人道法に反するとして法的に禁ずる核兵器禁止条約の歴史的採択にあたり、日本政府は当事者として核の廃絶を訴続けてきた広島・長崎の被爆者の努力を踏みにじり、その想いや希望を唾棄するかのごとく、米国に同調して参加しませんでした。それどころかアメリカなどの核保有国と共に、条約作りの動きに反対し今後も署名することはないと表明しています。率直に言って、唯一の戦争被爆国として日本は、「核保有国と非核保有国との橋渡しをする」と、かねてより明言しているにもかかわらず、「アメリカの核の傘のもとに自分たち日本は守られているから参加しない」「アメリカに条約交渉に参加しないよう圧力をかけられたから参加できない」では、あまりにも恥ずかしく情けないと感じた方は大変多いのではないでしょうか?
繰り返しますが、日本は72年前アメリカ軍より明確な目的と計画のもと意図的に広島・長崎に原爆投下を受けた世界で唯一の戦争被爆国です。加えて戦後もアメリカのビキニ環礁水爆実験によって日本のマグロ漁船第五福竜丸が被爆しました。そしてあの忌まわしい福島原発事故を経、世界の核の時代を終わらせることこそ我が国そして私たち日本人の進むべき道であり役割だと思うのは当然のことです。そして今、こんな大変な状況だからこそ、核廃絶を米国はじめ核保有国にこびることなく堂々と自らの主体的な考えや役割を主張し、国際世論に強く訴えることができる特別な存在なのが唯一日本であり、今それが試されている大事な時期にあると考えます。
誰しも心の中に大なり小なり「理想と現実は違う」「この世から戦争や核兵器をなくすなんて難しいかもしれない」との疑念が浮かび、時にあきらめムードに流されがちなこともあるでしょう。しかし、原爆投下も原発事故も、世界における核兵器の拡散も、そもそも人間が意図的に計画的に考え選択してきた歩みと仕組があって、そこにさらに非人道的な意思やミスジャッジが重なって今現存するものととらえることもできます。最終的な決定権のイニシアティブはまぎれもなく人間の意志・手の中にあります。
断じて「理想を掲げずして現実は少しも変わらない」ことをここに明言したいと思います。

世界の核拡散の歴史を振り返る

72年前の1945年、アメリカ軍による広島・長崎への相次ぐ忌まわしい原爆投下により、人類は開けてはならぬパンドラの箱を開け、自ら核時代の幕開けをしてしまいました。この後、米ソ双方の苛烈な暴走ともいえる核武装増強競争により、冷戦期世界の核兵器は一時最大7万発近くにも達してしまいました。この状態で戦争が起きたら最終戦争までいってしまう。そうなれば「世界は終わる、人類は絶滅する」と言う強い危機感から、地球上でのこれ以上の核拡散を防ごうとの機運がしだいに高まり、1970年NPT核拡散防止条約が発効され以降核軍縮の軸となってきました。この条約ではアメリカやロシアなど5つの国を核保有国と認め、軍縮交渉を行うよう義務付ける一方、他の国があらたに核兵器を持つことを認めませんでした。しかし現実には、核保有国の軍縮は停滞し、数の上では、現在1万5千発と一時期と比べるとずいぶん減りましたが、核兵器の小型化と近代化はむしろ急速に高まっており、例えば広島の3300倍もの破壊力を持つ核兵器も存在するなど、むしろ核の脅威(破壊攻撃力・殺傷力、ともなう被害の甚大性、偶発性も含め使用されるリスク)はより深刻化してきています。一方、世界の核をめぐる世界情勢はより複雑化し、核保有国5カ国(米・露・英・仏・中)以外の、中小国(インド、パキスタン、北朝鮮、イスラエル等)も事実上、核を保有している上、他にもすきあれば我が国も核武装をと、もくろんでいる国も少なからず疑われるなど、核は不拡散どころかさらなる拡散の様相を呈しています。こうして今、世界終末時計の現時刻はジ・エンドとなる12時ジャストに対し、たったの2分半~3分前とも言われ、米ソ冷戦時代に最も核戦争リスクが高まった時と同レベルにまでに危機は差し迫っています。
このように見えざる核の脅威・危機が今そこにまで確実に迫りつつある今、私たち人類には、そして唯一の戦争被爆国である我々日本人には、待ったなしの問いが突きつけられていると思います。以下、そんな重責が期待される我が国における核に関する考えや歩みを検証しながら、日本にしかできない、日本だからこそ為すべき役割と行動を考えてみたいと思います。

戦後の核と日本の歩み

先に述べた1954年日本のマグロ漁船第五福竜丸が、アメリカの核実験により被爆した後、日本では原水爆禁止運動が全国規模で高まり、我が国における核廃絶世論の基礎が整いはじめました。一方アメリカとしては核兵器技術は独占しつつも、名目上の「平和の為の核利用」を前面に打ち出すことで、原子力ビジネス市場を世界に広げ、同時に他国からの非難をかわす戦術をとることとなりました。日本人にとって耳触りのよい「核の平和利用」のスローガンは瞬く間に国内に広がり国民の多くに受容され、日本は「反核兵器と親原子力」の路線を歩みだすこととなりました。この間、日本政府内では将来的な核武装に関する検討が行われ、1960年代の中国の核保有時には、この問題も大きく脚光を浴びましたが、最終的には、技術的、資金的、国民世論的にも難しく、そもそも憲法に反するとして(「核兵器=その他の兵器」に該当)、核の開発・保有を断念しました。そして1970年にはNPTに加盟し、自ら核兵器は持たず、アメリカの核の傘に依存しながら、原子力平和利用を推進するという道を歩み始めました。しかし一部政治家の中には「日本がその気になればいつでも短期間に核兵器を保有することができるよう能力は保持して置こうとの考え」や、「平和利用を前面に出しながらも『原子力の保持は将来の核抑止になる、いずれ核武装するために原発は残した方が良い』」と主張する者もあったようです。
確かに原子力技術が核武装技術にただちに直結するわけではありません。ただし原子力技術の中でも、核燃料を作るウランの濃縮技術は広島型原爆の材料となった濃縮ウランを、使用済み核燃料を再処理する技術は長崎型原爆の材料となったプルトニウムを生み出す技術と直結することになります。すなわち濃縮と再処理技術があれば核兵器を開発・保有することが可能となる訳です。日本は1950年代から日米交渉を重ね非核保有国でありながら、濃縮と再処理を行える立場を日米原子力協定の中で確立してきましたが、事実非核保有国でこの権利が認められているのは日本だけです。国土が限られ、核廃棄物の最終処分場の確保に難渋している日本にとって、再処理してプルトニウムを分離し、また燃料に使うと言う核燃料サイクル構想が、安全かつ採算の合うコストでできるのなら、確かに理想的な面もうかがえます。しかし実際にはこれらのメリットがあったとしても、原子力平和利用を明確に打ち出す姿勢が大切であり、たとえば朝鮮半島での韓国と北朝鮮ですら濃縮も再処理も行わないと、1992年南北非核化共同宣言によって宣言しています(後に北朝鮮は事実上これを破って核開発・保有へと走ったが、宣言はいまだ有効です)。
この後2000年代後半から、地球温暖化が深刻する中、二酸化炭素を排出しない原子力発電の期待が高まってきました。新興国の原子力発電への関心の高まりに乗じ、日本をはじめとする原子力大国は世界に原発を輸出したいと考えるようになりました。しかし上述したように、原子力技術の普及は、核不拡散とは明らかに矛盾します。原発が拡大し、同時に濃縮・再処理技術が拡散すれば、核兵器拡散の可能性も比例して増大することにつながるからです。福島の事故はそんな矢先に起きました。福島原発事故を受け、原子力というものがいったん暴走しはじめたら、もはや人間の力ではどうすることもできないという明確な事実、高レベルの放射能が後世までの長きにわたりすべての生命にもたらす甚大な被害と苦痛を改めて認識させられることとなりました。
以上見てきたように、原子力の平和利用と核兵器開発・拡散は不可避的につながっています。それでも我が国が原発に、それも莫大な損失を被ってもなお濃縮、再処理の核燃料サイクルを頑なに手放そうとしない本当の思惑は、やはり日本が核兵器保有を諦めきれていないと疑わざるを得えません。世界終末時計が人類滅亡2分半前に差し迫っている通り、もはや一刻の猶予もありません。
現時点、日本国民の多くはもちろん、世界ではかつてないほど多くの人が、核や放射能の脅威・悲惨さを感じ、その根絶を真剣に考えはじめています。今、日本そして私たち日本人が進むべき道は一つ、明確に核を否定・放棄し、世界の核時代を終わらせる平和の牽引役、リーダーとして世界をひっぱってゆくことだと思います。そのためにも核廃絶運動と脱原発運動は手を取り合い両輪として機能させていく必要があると思います。

核の傘って本当に必要?

先に記した核廃絶に向けて歴史的に大きな一歩となった核兵器禁止条約により、核兵器は明確に違法なものとなりました。しかし残念ながらそこに日本政府の姿はありませんでした。これに先立つ去年2016年10月国連総会の委員会で条約作りの交渉を開始するようもとめた決議案が採択された際も、日本などの他アメリカやロシアなどの核保有国、アメリカの傘のもとにあるドイツのようなNATO北大西洋条約機構の加盟国などあわせて38カ国は反対票を投じ、その後交渉が始まっても参加しませんでした。核保有国はともかく被爆国の日本が核兵器を禁止する条約に、なぜ反対の姿勢をとるのでしょうか。政府の言い分として以下の理由が推察されます。

理由①日本が同盟国アメリカの核の傘のもとにあるから
たとえば仮想敵国として北朝鮮を想定すれば、「こちらにはアメリカの核兵器がありますよ。もし日本に核攻撃でもしようものなら、同盟国アメリカが即刻核で反撃しますよ」と威嚇しているわけで、これらの威嚇も含め禁止している本条約を現時点で批准することは難しいからでしょう。しかし、この理論通り本当に核抑止力は確実に有効にはたらいているものなのでしょうか?絶対的に頼りきっていていいものなのでしょうか?そのおかげで日本の安全が本当に確実に担保されているのでしょうか?

⇒理由①の考察:
そもそも核抑止力ってなんでしょう。よくよく考えれば、抑止力とはいわばあいまいな概念であり考え方でしかないと思います。その時々の為政者や権力者にとって脅威と見なされれば、一時的な抑止する力は多少はたらくかもしれませんが、本質的な防衛手段や解決策に直結するものではありません。むしろ気を緩めた結果の判断ミスや不幸な事故も含めれば、つねに高リスクと隣り合わせのいわば信頼性の低い不確定要素、国家の命運を全面に委ねるにしては浅はかな考えと思います。冷戦時、米露が突出して膨大な数の核兵器を保有していた時代には、核兵器が放たれ敵地で起爆したら最後、互いが核反撃の連鎖を繰り広げ世界が破滅してしまう危険性が極めて高いものでした。このような時代には、「核を使用すること=世界の破滅」と強い危機感を持って対応していましたし、実際に米と露(当時のソ連)の間で熱心・頻回なコミュニケーションの場が設けられていたと聞きます。
では我が国が現在置かれた立ち位置でみた場合を考えてみましょう。
北朝鮮もそれなりの国家です。現在核開発・武装を前面に打ち出し国際社会に抗っているのは見ての通りですが、彼らなりに国家存亡をかけ、今後の自国の存続と繁栄を思い描いて国際社会の中でそれなりに優位な地位や待遇にあずかりたいのが本音と思います。極東地域においては長期的に見れば経済大国日本とも上手に付き合って、さらなる繁栄を謳歌したいところもあるでしょう。よって、対日本との関係の中では、よほどの不測の事態、たとえば政権転覆によるミスオペレーションでも起こり得ない限り、日本にやみくもに先制核攻撃することはまずもって考えられません。もし日本が先制攻撃されるとしたら、例えば、米国と北朝鮮の対立が深まり米と北朝鮮との間で戦争が始まる中で、日本が米国からの要請を受けて恣意的に新3要件をクリアさせ集団的自衛権を行使し参戦した場合です。そうなったら、日本はもはや憎き敵国米国と同じ敵国ですから、北朝鮮にとって戦況が不利になり、いよいよ追いつめられれば日本に核攻撃をしかける可能性は高まると思われます。現在北朝鮮ではICBMの開発が着実に進んでいる模様ですが、正確な飛距離・精度等の技術力はまだ不透明です。今言えることはアメリカへの正確な核攻撃はできなくても、極めて距離が近い日本になら、第一発目の脅しを含め大打撃を与えるのに、暴走してしまう可能性がないとは言い切れません。
また、さらに北朝鮮が仮に飛距離・精度とも申し分ないICBM技術を持っていたと仮定した場合、実際に何が起こりえるでしょう。不幸にも北朝鮮が実際に核ミサイルを日本に撃ち込んだとします。これまでのアメリカは口約束では、核の傘にある日本を守るべく核を北朝鮮に撃ち込み反撃したいところですが、果たして本当にアメリカはそれを実行してくれるでしょうか?甚だ疑問です。なぜならもしそれをしたら、今度はアメリカ本土が北朝鮮からの核攻撃を受けるリスクを被ることになるからです。自国が無傷の状態でありながら、あえて核攻撃による甚大な被害を被ってしまうリスクを想定してもなお、アメリカは躊躇なく北朝鮮に対し核による反撃を実行できるでしょうか。いくら日本が核攻撃を受けたとはいえ、非人道的な兵器を国際社会の反対を振り切ってまでアメリカは使うことができるでしょうか。日本とて、核を打ち込まれたら憎しみと敵意から反撃したい気持ちはわかりますが、それをしたら多大な被害を受けることになるのは、北朝鮮の多くの民間人です。さらなる破壊行為の負の連鎖を繰り返すことが、根本的な解決にはならないことは容易に想像がつくはずです。そもそも論ですが、何があってもまずもって北朝鮮には日本に絶対に核を打ち込ませないための外交力、交渉力、戦略こそが最優先されるべきです。
このように見ていくと、少なくとも我が国に関する核抑止への依存防衛論は極めて有効性・信頼性乏しく、むしろ平和主義を貫く上では、今回の核兵器禁止条約への不参加や反対を表明せざる得ない等の足かせのデメリットが伴ってくる、マイナス面やリスク面ばかりが目立つ甘々の防衛戦略と思います。
よく日本は平和ボケだと言われる方がいらっしゃいますが、日米安全保障にどっぷりと依存し、アメリカの核の傘に守られていることに慢心し、これを是とし絶対に安心と信じ込んでいることこそ、真の意味で危ない「平和ボケ」ではないでしょうか。
やはり核や武力に頼らず、世界に向けて平和や調停を積極的に推進する役割や姿勢を示すことこそが、日本が一貫して目指していくべき道と思います。

理由②同盟国アメリカに逆らえないから。
⇒理由②の考察:
今回の核兵器禁止条約採択にあたり日本の不参加を米国側から要請されたことは歴然と公表されている周知の事実です。かと言って安全保障上のことも含め米国にどっぷりと依存し過ぎている日本の立場を考えれば、政府首脳や関係者を一概に責めたてたところで何も解決しません。それに実際に志高く、本条約への歩み寄りや建設的アプローチを模索し苦悩した官僚や政治家も少数ながらいたと思います。そもそも、日本政府としては核軍縮は核保有国と非保有国が一緒になって段階的に進める必要があると明言しています。この言葉を信じるなら、目に見える形と行動で確実に着実に、明確なタイムリミットを設定して、その歩みを進めて欲しいと思います。日本は被爆を経験した国として特別な立場にあります。この条約に対してもアメリカに対して堂々と意見や考えを主張すべきでしょう。これらのことを堂々と言える日本の姿勢や立場を継続的に示していくことでこそ、日本に対しアメリカがこれまでは下に見て軽く扱っていたレベルから、アメリカと対応に渡り合える真のパートナーレベルへと、再認識してくれる日が近い将来来ることを期待したいものです。

唯一の戦争被爆国日本が果たすべき「戦争と核兵器のない世界」の実現に向けた提言

世界平和の規範たる日本国憲法の恒久平和の理念に根差した、唯一の戦争被爆国である日本にしかできない、日本だからこそ為すべき「戦争と核兵器のない世界」の実現に向けた役割と行動にについて、以下の通り提言させていただきます。

〈3つの基本指針〉
Ⅰ.「憲法九条の理念のもと、日本が世界に誇るべき平和主義を今一度全世界に向け高らかに宣言し、世界の戦争や紛争の解決、和平、調停、和解、のための主体的な役割を積極的に果たしていくこと」
Ⅱ.「世界で唯一、核兵器による戦争被爆国ならばこその強い覚悟と使命感のもと、地球上の核兵器の完全廃絶を実現させるべく、強力なリーダーシップを発揮し、核保有国と非核保有国との間を丁寧に橋渡ししながら、和解・協調の道をたゆまず進めていくこと」
Ⅲ.「紛争や戦争の背景要因とされる、差別、偏見、貧困、格差解消等に向けた”知識” “知見””技術” “しくみ””ノウハウ”等を国内はもとより世界に発信し、その確実な普及・啓蒙・改善・開発・拡大化を図っていくこと」

〈6つの個別アプローチ〉

1.史実に基づいた先の戦争の学びと反省・検証、戦争記憶風化の防止
為政者、そして戦争の知識がいまだ不足しているとお感じの国民一人ひとりが、先の戦争の愚かさ、悲惨さ、残酷さ、核の怖さ、非人道性などを、まずは身を持って想像力を徹底駆使して感じ取ってほしいと思います。そのために一人一人が新聞・雑誌・書籍、マスメディア、ネット、図書館、関連施設、戦争経験者からの話等あらゆる機会を通じ、まずは戦争や被爆の真実をより多く正確に、知りうる努力を心掛けることからがスタートラインと思います。とりわけ世界各国の為政者の強い自覚と役割、責任は重要です。戦争経験もなく知識や想像力が不十分と思われる為政者、政府関係者こそ、戦争とその史実について徹底的に学びなおすことを切に願います。と同時に我が国において、これまで不足していた先の戦争に突き進むこととなった開戦以前から戦中、終戦、現憲法制定に至る正確かつ詳細な史実教育を教育現場において提供していくことを強く望みます。このことこそが我が国及び日本国民における先の戦争への真の反省と戦争記憶の風化を防ぐことにつながると思います。

2.核保有国をはじめとする世界の為政者、リーダーに対し広島・長崎訪問を強く要請
日本政府は、世界のすべての核保有国の為政者・リーダーに対し、広島・長崎を訪れ、実際に原爆投下時きのこ雲の下で、どれほど筆舌に耐えがたい惨劇が起こっていたのかを、自分自身の目と耳と体と心でリアルに体験してもらうことを即刻、これまでになくより強力に働きかけてください。
※核保有国の為政者は自国中心的な考えに陥ったまま、核の威嚇による力を頼りとし、これを誇示する言動を繰り返しています。この考えやアプローチを明確に否定し、ノーが言える特別な立場にいるのが唯一の戦争被爆国日本ですし、日本にしかできないことと思います。

3.核抑止論の完全否定、米国核の傘からの完全離脱宣言
日本政府は、これまで通り日米安全保障条約、日米防衛協力体制を維持しつつも、今後はもはや米の核の傘を必要としないことを、米国および世界に向け明確に宣言しましょう。そして今後核兵器禁止条約への参加・批准作業を本格的に加速させましょう。今すぐにそれが無理だとしても、できるだけ早くに、せめて将来的に参加・批准の意思があることくらいは示しましょう。
※2017年7月7日核兵器禁止条約採択時、世界で唯一の戦争被爆国として、せめてオブザーバーの立場でも参加してほしかったと思います。
※核抑止力を肯定する考えに対し、例えば「核兵器はどんなに理屈をならべても人道上、絶対的に使ってはいけないものなんだ」「自国中心の狭くて単一な考えにしばられるから、抑止力なんて言う実はあいまいでとても危険な考えに陥ってしまうんだ。だから抑止力なんて頼っても無意味なんだ、そもそも必要ないんだ」と言った明確な反論を示し、核保有国はもとより、核の傘に依存する非核保有国すべて、そして世界全体に発信していくことが望まれます。

4.いまだ十分な補償がなされていない国内外すべての戦争被害者への救済措置
国は内外問わず、すべての戦争被害者、被災者とその関係者にとって「戦争はまだ終わっていない」「常に反省を忘れない」と言うことを明確に再認識し、戦争被害を被りながらいまだ満足な救済措置が取られていない国内外すべての方々へ、必要な救済措置を検討・実施し続けてください。戦争被災者の年齢は年々確実に高齢化しています。一日も早い救済が望まれます。
※一例)先の戦時下、東京大空襲以降、日本各地での空襲は本格化し、計200都市以上、全国の死者だけでも60万人にも上ります。当時国は防空法と言う法律を設け、民間人の都市からの退却禁止、空襲時の応急消火義務が加わり、逃げるな火を消せ、逃げることは処罰の対象と国民の行動統制を行いました。さらに当時内務省が推奨する手引きでは、焼夷弾は恐くないとして、水をかけるとの対策を示していましたが、実際には水をかけると化学反応を起こして薬剤が飛び散り延焼が拡がるほか、薬剤が体に付着して大やけどを負う危険性がありました。このようにして国民の命ではなく、国家体制を守ろうとして防空法とその運用規定、報道統制などによって、被害はむしろ拡大したのが紛れもない事実です。空襲の危険性をしりながら、こうした非科学的で危険な対処法を広がるままにまかせ、みすみす民間人犠牲者の数を広げた当時の国の責任は重く、もはや多くの時間が残されていない民間戦災者に対し、早急な救済措置を取らなければならないと考えます。
尚、当時米軍が使用した焼夷弾は、現在の考えに当てはめれば無差別大量破壊殺傷兵器であるクラスター爆弾に該当することを付け加えておきます。

5.非核三原則の徹底遵守
第二次安倍政権発足後、宣言や明言を徐々に避けている節がうかがえる「非核三原則」遵守の姿勢を国内外にあらためて明確に示し、それが守られているかどうかの監視・管理も徹底してほしいと思います。とりわけ核廃絶を目指すリーダー国としての自覚と責任のもと、国内駐留、寄港アメリカ軍に対しても、アメリカが日本に核を持ち込むことは同盟国であっても絶対に認めないことを明確に示して欲しいと思います。ちなみに今回の核兵器禁止条約への不参加は、日本自身の純粋な考え・判断でなく、アメリカから強い圧力があったことが大きな要因の一つであることは明らかです。今回に限らず今後戦争有事の際にも、アメリカからの強い要請があったからと安易に結論ありきで、恣意的に例えば集団的自衛権を発動させないためにも、日本は必要性に応じ、大国米国に対し世界の恒久平和を希求する理念に基づき堂々と物申せる、時には明確にNOを言える気概や姿勢を示せる誇り高い存在となって欲しいと思います。

6.防衛装備移転三原則の廃止または大幅見直しによる実質武器輸出三原則の堅持、徹底厳守
我が国は先の戦争の反省を踏まえ、実質上、武器輸出三原則の緩和、解禁に大きく舵を取った防衛装備移転三原則を即刻見直しし、武器装備に関する製品・技術の輸出においては、これまで有効なタガとして機能していた武器輸出三原則を今後も堅持していくことを望みます。また核開発、核武装につながるリスクが高い原子炉についても同様に海外には決して輸出しないこと、加えて軍事研究、軍事ビジネスに関する分野における軍産官の複合体は、学問の府たる大学に対する協力・協同要請を厳に慎む良識ある姿勢を保つことを切に望みます。さらには非人道性が問われる兵器製造にかかわる企業に対する投資協力も日本及び日本企業は同様に厳に自粛すべきです。
※自国の目先の利益や利潤を重視し、国の内外に将来にわたり及ぼす悪影響、とりわけ我が国の確固たる平和国家としての諸外国からの信頼の毀損リスクが高いことを自覚し、武器輸出には厳に慎重であるべきです。例え現実的にすぐに「防衛装備移転三原則」の撤廃が難しいとしても、少なくとも我が国のあるべき未来の姿を想像し、武器輸出の詳細な内容、縛りを大いに議論し、国民にもつつがなく情報を開示し、慎重に対応していくことを望みます。
※現防衛装備移転三原則では、実は同盟国を経由して本来渡してはならない非人道的な戦術スタイルをとる不適格な戦争当事国に、武器や関連装備品が間接的にわたってしまうリスクが懸念されています。
※数ある兵器の中でも非人道的な兵器として有名なクラスター爆弾を製造する企業へ投資協力している日本企業4社の株式を、GPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)が保有していることが先般の新聞報道により明らかになりました。そもそも日本政府は2009年「クラスター爆弾の製造や所持、輸出を禁止するオスロ条約」を批准しています。これを受け全国銀行協会も参加金融機関に対し、「クラスター爆弾の製造を資金使途とする与信は国内外を問わず行わない」と申し合わせていましたが、実際には全く歯止めがかかっていないのが実情です。国民の資金、公金である年金積立金が、国民への説明や理解を得ることなく(そもそも説明したとしても即刻大反対にあうのは当然ですが)非人道兵器製造会社の株式投資に使われたと言うことは、はからずも我々日本国民の多くが非人道的武器産業の株式保有者を資金的に応援してしまったことを意味します。政府においては、核に限らず非人道的兵器の拡散を徹底防止すると言う強い覚悟と緊張感を持って、投資レベルにおいても厳格な管理・監督を望みます。

最後に

以上、わが国が果たすべき3つの基本指針、6つの個別アプローチを提言させていただきました。この一部分、ほんのわずかなエッセンスだけでも共感していただけたなら幸いです。

理想を掲げずして現実は決して変えられません。今すぐに我が国の考えや方針が大きく変わることは残念ながらあまり期待できませんが、まずは私たち国民一人ひとりが徹底的に日本のあるべき姿を想像し、真の心豊かな国、真に平和と非戦を貫く国を目指すとともに、戦争と核兵器のない平和な世界を作り上げるためのたゆまぬ努力を積み重ねていくことは、決してあきらめずに貫き続けねばなりません。この歩みを続けることが、世界に蔓延する無意味な武力解決主義、自国第一主義、核抑止力信奉など足元にも及ばない真の戦争・紛争抑止力、平和創造力をもたらし、ひいては人類の理想とする「わが国と世界の恒久平和」「戦争と核兵器のない世界」の実現に着実に近づいていくことを信じてやみません。

長時間にわたりお付き合いくださり、誠にありがとうございました。
18世紀の文学者、思想家であるヴォルテールの寛容論の最後を締めくくる言葉を記し、本論を終わりにしたいと思います。

〈ヴォルテール:寛容論より〉
私が訴えるのはもはや人類に対してでなくそれはあらゆる存在、あらゆる世界、あらゆる時代の神であるあなたにむかってである。

なにとぞ、われわれの本性と切り離しえない過ちの数々を、憐れみを持ってごらんくださいますように。

これらの過ちが我々の難儀のもとになりませぬように。

あなたはお互いに憎しみ合うとて、心を、またお互いに殺し合えとて、手を、われわれにお授けになったのではありません。

苦しいつかの間の人生の重荷に耐えられるように、われわれがお互い同士助け合うようお計らいください。

すべて滑稽なわれわれの慣習、それぞれが不備な我々の法律、それぞれがばかげているわれわれの見解、われわれの目には違いがあるように思えても、あなたの目から見ればなんら変わるところのないわれわれ各人の状態、それらの間にあるささやかな相違が、また「人間」と呼ばれる微小な存在に区別をつけている、こうした一切のささやかな微妙な差が、憎悪と迫害の口火にならぬようお計らいください。

すべて人は兄弟であるのをみんなが思い出さんことを。